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郭巨山 ―かっきょやま―
下京区四条通西洞院入ル郭巨山町
中国の史話に基づく山です。御神体の郭巨は、貧しさゆえに家族を養いきれず、母を守るため、一時は子を捨てようと決意します。その途中の山中で財宝の詰まった釜を掘り当てたことから、金運招来の山と言われています。
台の上には、郭巨と童子像のほか、金の釜も載せられています。胴懸などの織物懸装品は近年新調したもので、天明5(1785)年に制作した胴懸は、円山応挙の師にあたる石田幽汀の下絵です。
御神体:郭巨・童子
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舁山(かきやま)のこだわり
貴重な欄縁まわりの装飾
元来、人が山を担いで巡行した舁山も、昭和38年ごろからは目立たぬように車輪をつけて巡行するようになりました。巡行路の道幅も広くなり、車輪を付けることで丸一日かかった巡行が半日に短縮されるメリットもあってのことですが、郭巨山はあくまでも舁山の古式にこだわりました。
ほかの舁山が車輪をつける中、最後は四条寺町の御旅所まで舁いてみせる意地を通しましたが、昭和43年にはついに車輪を付けることになってしまいました。現在ではすべての舁山に車輪が付いています。
一般的に、前懸や胴懸などの懸装品は屋台の手すりから掛けられ、そこに欄縁を乗せて隠してしまいますが、郭巨山は乳隠(ちかく)しと呼ばれる飾り板に胴懸などを懸け、その上に欄縁でさらに飾っています。乳隠しの父とは懸装品をつるす小裂をさし、それを隠す目的の装飾板のため、乳隠しと言います。
かつては多くの山鉾で見られた装飾方法ですが、現在ではこの山が伝えるのみとなりました。きらびやかな欄縁と乳隠しのとりあわせをじっくり鑑賞したいです。
屋根を付けていずれは曳山
日覆い障子は郭巨山にしかない大きな特徴です。代の内側に柱を立て、障子6枚で組み立てる屋根は、別名雨障子とも呼ばれています。いつ頃つけられたかは定かではありませんが、一説には天明の大火の復興期に、またはそのあとの文化文政期と言われています。舁山らしからぬ装飾は、将来的に曳山(ひきやま)を目指したという説もあり、重要文化財の指定を受けたことで、その望みはあえなく潰えたことになります。